|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 協 : [きょう] 1. (n-suf,n-pref) cooperation ・ 協奏曲 : [きょうそうきょく] 【名詞】 1. concerto ・ 奏曲 : [そうきょく] (n) (abbr) sonata ・ 曲 : [きょく, くせ] 【名詞】 1. a habit (often a bad habit, i.e. vice) 2. peculiarity ・ 第 : [だい] (n,pref) ordinal ・ 番 : [ばん] 【名詞】 1. (1) watch 2. guard 3. lookout 4. (2) bout, match (sumo) 5. (3) (one's) turn
ピアノ協奏曲第1番 変ロ短調 作品32は、フランツ・クサヴァー・シャルヴェンカが1873年から1874年にかけて作曲したピアノ協奏曲。初演は1875年4月14日にユリウス・シュテルンの指揮、作曲者自身の独奏により行われた。曲はフランツ・リストに献呈された。 == 背景 == プロイセンに生まれたシャルヴェンカは、3歳の頃には既に音楽の才能を示していたものの、家庭が裕福でなかったため独学でピアノを学んでいたに過ぎなかった。家族と共にベルリンに移った後、テオドール・クラクが開設した音楽院でクラクやリヒャルト・ヴュルストらの薫陶を受け、卒業後の1868年からは音楽院の教員として迎え入れられていた。その前後の時期にはメンデルスゾーンの「ピアノ協奏曲第2番」を弾いて楽壇にデビューし、また初期作品もブライトコプフ・ウント・ヘルテル社から出版するなど、彼のキャリアは順調な滑り出しを見せていた〔。 ある時、出版社を立ち上げた友人に頼まれ、シャルヴェンカは3曲のピアノ小品を作曲して彼の会社から発表した。ところが、ブライトコプフ社はこれを背信行為とみなし、シャルヴェンカが次に作曲した2部構成の幻想曲の出版は断られてしまう。その後に検討重ねた結果、彼はこの曲を再構成、オーケストレーションを加えて協奏曲に仕立てるという構想に至った。そこで日常業務の傍ら数年を費やし、1873年から約2年間の兵役の間に全曲を完成させた。彼は1875年の初演を終えてなお不満を感じ、さらに曲の構成を手直しして出版した。3楽章制の状態で初めて公に披露したのは、さらにその2年後の1877年4月、ブレーメンにおける演奏会であった〔。 シャルヴェンカは1875年夏にヴァイマルに向かっている。この地で彼はリストに曲を披露すると、リストは快く曲の献呈を受け入れ、その後も曲を誉めて若き作曲家のキャリアを後押しした。リスト自身もこの協奏曲を演奏した他、1877年にはグスタフ・マーラーが第1楽章のピアノ独奏を行うなど、当時の多くの著名な演奏家が取り上げている。イギリス初演を行ったのはイグナーツ・モシェレス門下のエドワード・ダンロイターであり、1877年10月27日のロンドン、水晶宮での演奏会だった。この演奏会に居合わせたハンス・フォン・ビューローは曲の予想以上の出来の良さに驚き、チャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第1番」からのアイデアの借用を疑ったが〔チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番は、ニコライ・ルビンシテインとのいざこざの末、ビューローに献呈された経緯がある。チャイコフスキーのピアノ協奏曲へのリンク参照。〕、シャルヴェンカはこれを否定している〔。 シャルヴェンカ自身も重要な場面でこの曲を選曲しており、1879年3月1日の水晶宮におけるイギリスデビューや、1891年1月のアントン・ザイドル指揮でのメトロポリタン歌劇場における初のアメリカ公演を、この協奏曲で飾っている〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ピアノ協奏曲第1番 (シャルヴェンカ)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|